名古屋高等裁判所 昭和36年(う)437号 判決 1962年2月12日
控訴人 原審検察官
被告人 長崎忍
検察官 荒井健吉
主文
本件控訴を棄却する。
理由
本件控訴の趣意は、名古屋高等検察庁検察官検事荒井健吉提出の控訴趣意書(津島区検察庁検察官事務取扱検事赤沢正司作成名義)記載のとおりであり、これに対する答弁は、弁護人宗本甲治提出の答弁書にそれぞれ記載するとおりであるから、ここにこれを引用する。
所論は、原判決が本件事故発生の場所が国鉄新居町駅前のバス停留所で、本件事故当時、同所には、バスが停車中であり、被告人においてもこの事実を認識しており、更に右停車中のバスは当時客扱い中で、降客多数がその附近におり、何時その道路の反対側にある国鉄新居町駅に向け道路を横断するかも知れない状況にあつたのにかかわらず、原判決はこの事実を証拠上看過してこの点を認定しない重大な事実の誤認があり、ひいては右具体的事情のもとにおいて、右停車中のバスの北側を通過しようとする自動車運転者としては、予め一時停車するはもちろん、横断者を発見したときに何時でも急停車し得る程度に最大限徐行すべき業務上の注意義務の存在する点を看過して、被告人に対し、かかる注意義務の懈怠を認めず、加えてまた警笛を吹鳴する等被害者に対する警告措置も不十分であり、この点においても又被告人に過失の存在が認められるのにかかわらず、本件事故は一方的に被害者の過失に起因するものと認め、被告人に過失を認める証拠がないとの理由で、被告人に無罪の言渡しをしたことは、判決に影響を及ぼす重大な事実の誤認がある、というのである。
原判決は本件公訴事実のうち、「被告人は観光バスの運転業務に従事中、昭和三五年六月二六日午後五時二十分ごろ、観光バスを運転して静岡県国鉄新居町駅前の道路を時速約二五粁で西進中、同道路南側車道に西方に向き停車している二台の乗合自動車を認め、右乗合自動車の北側を通過しようとした際、停車中の東側乗合自動車の前部より北方に向つて走り出してきた中島義夫を至近距離に発見し、右にハンドルを切り急停車の措置を講じたが及ばず、自車の左側前部車体を同人に衝突させて、同人を路上に転倒させ、右衝突により同人が、肺出血等の傷害を負い同日午後六時三八分ころ同郡湖西町鷲津二二五九番地の一町立湖西病院において、右傷害により死亡するに至つたものである」事実を証拠により認定しており、右事実については検察官、被告人において認めて争わないところである。そこで、本件の争点は、被告人が本件現場にさしかかつた際の具体的状況のもとに、被告人に対し、検察官所論の注意義務、すなわち何時でも急停車をなし得る程度に最大限除行運転をすべき注意義務を課し、ひいては被告人にこれが義務懈怠を認むべきかということ、ならびに、被告人に対し警笛を吹鳴すべき義務懈怠あつたことを認めるかどうか、ということである。そこでまづ、検察官所論の右前段の注意義務の存否、及び被告人がこれが義務懈怠の有無について判断を加えることとする。
そこで、本件記録及び原裁判所が取り調べたすべての証拠ならびに当裁判所における事実調べの結果についてこの点を検討してみると、原判決引用の各証拠を綜合すれば、被告人は前示冒頭掲記の日時ころ乗客五〇名位が乗車している観光バスを運転して静岡県国鉄新居町駅前を通ずる国道一号線道路の左側を時速三、四〇粁位で西進中、同駅前道路南側に西方に向つて停車中の乗合自動車(遠州鉄道定期バス)を前方約四〇余米のところに認め、道路中央よりやや右寄りに進路をとり、かつ二五粁位に減速して前記定期バスの北方後部附近に至つた際同バスの西方に更に一台の乗合自動車(同会社臨時バス)が停車中であることを認めたのであるが、本件現場である国鉄新居町駅前国道一号線は見透しのよい直線舗装道路で同駅前広場が国道に沿つて北方に接続し、同駅の玄関正面から国道北側まで約二〇米の間隔を有し、同駅玄関とほぼ真向いの国道上に遠州鉄道株式会社乗合自動車の停留所があり、またその東西に各二〇米宛距てて国道に各横断歩道が設けられてあり、道路の幅員は約一一、二米で速度制限はなく、徐行標識もない場所であること、右横断歩道の位置は、約三、三米の間隔を置いて、停車中の二台のバスの前後にあり、右路面のほぼ中央に道路区分(車道と歩道の区分)があり、いずれも約一米巾で白ペンキで書かれて容易に認識できる状態にあつたこと、被告人は自車の左側と前記定期バスの右側との間隔を約二米とつて、前記国道一号線の南側(左側)から約二、六米附近を進行中、前方約四〇米附近に停車中の前記二台のバスが客扱い中であることを認識できる状況にあつたこと(したがつて被告人としても、これらの降客が反対側の国鉄新居町駅の方に向つて道路を横断することのあるのは、当然予見すべきであつたといわなければならない。)以上の各事実を認定することができる。
被告人が観光バスを運転して本件現場にさしかかつた際の右認定の具体的状況に徴すると、被告人は本件現場において、前方に二台のバスが停車中であることを充分に認識していたのであるが、被告人が運転する観光バスが進行していた前記国道一号線の見透しの状況が良好で、その幅員は前記のとおり約一一、二米もあり、速度制限はなく、徐行標識もない場所で、しかも本件現場附近は諸車の交通頻繁で、その路面には横断歩道ならびに道路区分(車道と歩道の区分)が約一米幅で白ペンキで書かれており、被告人は自車の左側と前記定期バス右側との間隔約二米で前記国道一号線の南側と約二、六米の間隔をとつて進行していた点にかんがみ、たとえ前記二台のバスが停車し、相当多数の乗降客があり、被告人も右バスが客扱いをしていることを認識できる状況にあつたにせよ、その降客としては、道路を横断するには、バスの前後に設置されている歩道を利用することを期待し、右二台のバスの間から自車の進路前面に出てくる歩行者の存在は予見できなかつたものである。この点については、原判決も説示しているとおり旧道路交通法施行令二六条(道路交通法三一条)所定の車馬が停留中の軌道車に追いついた場合すなわち、乗降客が必然的に自車の進路に出てくることが予想される場合とでは、自ら自動車運転者としての執るべき態度に異るものがあるものというべきである。(なお原判決の右具体的状況についての認定に所論のような事実誤認は存しない。)もつとも、被告人としては右二台のバスの降客中には、交通道徳に無関心のため、道路を横断するため右二台のバスの間から徒歩で、自車の進路に出てくる者のあることは予見できないことはないが、本件のような交通頻繁な幹線道路で無謀にも自車の進路に飛び出してくる(それは自殺行為といつても過言でない)ような稀有な場合まで予見し、これに対処することを要求するが如きは、もはや自動車運転者に対し要求される通常の注意義務の程度を超える過大な要求というべきである。思うに自動車運転者に対しかかる注意義務までを認めることになれば、自動車の高速度交通機関たる性能を完全に没却しさることとなり、その社会の利器としての効用も失われることとなるからである。道路交通の危険に対しては、歩行者も又自らその責の一端を負わなければならないわけである。
ところで、被告人は本件現場では時速約二五粁に減速していたのであるから、右二台のバスの間から徒走で自車の進路に出てきた場合のように予見可能な危険な事態に対しては、本件記録に徴し、当時対向車のなかつたことが認められ、かつ前記認定のように自車と右国道南側との間には約二、六米も余裕があつたのであるから、右にハンドルを切り急停車の措置をとることにより、これとの衝突を未然に防止することが充分可能であつたと考えられるので、検察官主張のようにこのような場合でも、何時でも即時急停車の措置をとり得るよう最大限に徐行すべき義務までを、課する必要も又存在しないわけである。然るに、本件において、中島義夫(当二六年)は前記二台のバスの間から、被告人の運転する自動車の進路前面に、疾走して飛び出し被告人としては、同人がこのように停車中のバスの間から飛び出してくるのを発見した時には、時既におそく、同人との衝突を回避できない状態に追い込まれていたもので、(被告人にこの点について前方注意義務の懈怠があつたとし得ないことは、原判決に認定するとおりである。)中島において、もしも、普通の歩行の速度で右バスの間から出てきたものであれば、本件の交通、道路の状況のもとで、被告人としても、よく同人との衝突を回避し得たものであることは記録上明らかなところというべきである。
そうすると、被告人が本件において何時でも即時停車できるよう最大限徐行せず、時速約二五粁で進行した点については所論のような注意義務懈怠はないものというべきであり、右と同旨の見解のもとに被告人のこれが義務懈怠の事実を否定した原判決はこの点につき所論のような事実誤認は存しない。
次に所論は被告人が警笛吹鳴義務を懈怠したと主張するが、原審第二回公判調書中、被告人の供述記載によれば、被告人は前記定期バスの後部の横断歩道のところで一回警笛を吹鳴したこと、被告人の運転していた観光バスの警笛はエアホーンで、エアホーンは電気ホーンと違つてスイツチが切れるとともに音が止るのではなく、長く鳴るものであるから一声鳴らした程度に止めたことを認めることができるので警笛吹鳴義務についても被告人に懈怠があつたとは認められない。したがつて被告人に警笛吹鳴義務の懈怠はないとする原判決の認定は正当であつてこの点についても原判決には事実誤認はない。以上の次第であつて、結局本件事故は原判決が認定したごとく前記中島が突然前記定期バスの前から被告人の運転する観光バスの進路に駈け出してくるという一般に自動車運転者としてこれを予測することができない一方的な過失によつて惹起されたものと認めざるを得ない。
よつて原判決が被告人に本件公訴事実記載の業務上の過失が存しないものとして無罪を言い渡したのは正当であるといわなければならない。論旨は理由がない。
よつて刑訴法三九六条に従い本件控訴を棄却し、主文のとおり判決する。
(裁判長判事 影山正雄 判事 谷口正孝 判事 中谷直久)